明日から始めよう

管理人ユウが思ったこと、感じたこと、考えたこと                                    Twitter:I_am_You4321 https://twitter.com/I_am_You4321

【雑記】閑話休題

blog.tinect.jp

このエントリーを見た時何だか腹が立ったんですけど、感想としてはどんなものが多いんでしょうね。

 

自分はmegamouthさん好きなんですよ。

ブログを書いている人でいえば今はもういないnakamurabashiさんを除けば一番好きです(nakamurabashiさんどこかでまた文章書いてないかな)

理由は「屈折している」から、なんですが。

 

希望を捨てたといいつつ、捨てきれてなくて上のような記事を書く所とか

そんな自分を自覚してるだろうことも好きなところですね。

 

そう、自分がイラっとしたのは小洒落た文章で、本質を誤魔化してるところです。

実直な文章はストレートに感情が伝わってくるのに、彼の言葉を借りれば

「自意識過剰で、刹那的な生き方を好むポーズを崩さない、つまりは、よくいる根暗なサブカル青年」な部分が諸に出てますね。

まぁ読者サービスの一環なのかもしれないですけど、あんまり面白くないと思います。

 

・・・

他人に影響を与えてこんなの書かせるぐらいだからやっぱ文章上手いんでしょうね。

客観性を持って自己評価するなら、自分は嫉妬してるんだと思います。

じゃないとこんなこと書かないよね。

まぁそれもアリです。

 

だからmegamouthさんが好きなんでしょうしね。

いつかどっかで会えないもんかな。

 

 

 

 

 

 

 

【考察】思い通りにいかないのは誰かにコントロールされているとき

「世の中思い通りにはならないよね」

こんな言葉を世間で良く聞く。

 

まぁ例によって僕は信じていないw

これは端的に言うと

「世の中思い通りにはならない」世界を自ら選んで生きているから、が結論なんだけど

 

何故「世の中思い通りにならないよね」を信じることが出来るのか考えてみましょう。

 

例えば僕の直近の例を挙げましょうか。

僕は新人歓迎会に参加しました。

そして二次会に参加して朝まで主に人狼をしていました。

 

Q.僕は思い通りの新人歓迎会、二次会になったと感じているでしょうか。

上記問いに関する答えはこれ。

A.僕は思い通りの新人歓迎会、二次会になったとは感じていない。

楽しかったけど、もうちょっと人と話をしたかった。

 

おやおや、矛盾が生じてることに気付いたでしょうか?

例えば上記「思い通りにいかない教の人」が上の話を聞いたら間違いなく「まぁ世の中そんな思い通りにはならないよ」と口にすることでしょう。

 

そう言われたら僕はこう反論すると思います。

「いや、あの歓迎会と二次会は主催の人間がいたので思い通りに行かないのは当然です」と。

そして僕は「思い通りにいかせようと思うなら自分で主催をしないとダメですね」と結論付ける。

 

この論説の重要な点は「始めから思い通りにいかない」ことがほぼ決定されていた事象だったことです。

そもそも「誰かが考えた出来事」が「自分の思い通りにいくはずがない」訳です。

それは「誰か=自分」という極めて珍しいケースを想定してしまった、所謂ミスです。

 

さて、まぁタイトルの通りなんですけど

「思い通りにいかないのは誰かにコントロールされているとき」です。

 

コントロールが適切じゃないなら、誰かに主軸を移している時ということですかね。

だから「自分以外の誰かに何かをやってもらうこと」これが思い通りにいかないのはある種当然なことが分かるでしょうか。

 

「誰かにコントロールを移した時点でその物事は自分の思い通りから外れている」

つまり自ら「思い通りにいかない状況を作り出している」ともいえますよね。

 

じゃあどうすりゃええねんって話。

簡単な話「全部主軸を自分に変えてしまえばいい」

「全ての主軸を自分に変えてしまえば、思い通りにいかないのは自分のせい」なんですよ。

「誰かに裏切られるのも、誰かに殺されるのも、全部自分のせいです」

 

ここまで来れば「何故思い通りにいかない教」が信じられているか分かるでしょう。

自分を守る為です。

「全部の出来事が思いどおりに行かないのは自分のせいだけじゃない」

 

そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

でも「僕は信じてません」

 

 

 

 

 

【仕事】2ヶ月で変わること

今から2ヶ月前のある日、

僕は上司に「辞めようかと思っていてその話になります」と切り出した。

 

仕事を辞めることに僕は大した感慨を持っていない。

そもそも僕はお酒も好きじゃないしギャンブルもやらない。

アレが欲しい、コレが欲しいなどもほぼない。

お金があれば使うが、無ければ使わない。

 

そんな訳で僕は「辞める」のハードルが物凄く低い。

生きていくだけのお金を稼ぐことなんて、手段を選ばなければそんなに難しくない、それが僕の考えだ。

とはいっても、僕は明日辞めます!などと不義理を働く訳でもなく

辞めるタイミングの話をしようとしていた。

別に2ヶ月後でも良いとすら思っていて。

 

僕は上司と向かい合って話をした。

 

詳細は割愛するが・・・

結論から言って僕は引きとめられた。

引きとめられた上で、昇進に繋がる話を持ち掛けられた。

実は順序が逆で、昇進話を持ちかけようとしたら、僕が辞めようとして驚いたという話だった。

 

僕は言いたいことは遠慮なく言った。

一応断っていくと、僕は社会経験が今の会社しかない。

つまり会社に入った時点で「自分=底辺」だという意識があった。

 

それなのに、僕は「自分=底辺」の自分が会社に対して、というより社会に対して失望、もしくは諦観のようなものを抱きながら仕事をしていたように感じる。

 

僕は「なるほどね、みんな死んだ顔をして仕事をする訳だ」と。

作業効率を阻害するあらゆるものをそのままに放置して日々行われる業務。

 

「でもまぁ世の中なんてそんなもんなんでしょう?」

僕は疑ってなかった。

それは窓から見える人々のつまらなさそうな顔と一致した世界だったから。

 

だから僕はつまらなそうな人達のことを考えなかった、

常に面白そうなものがないかと自分の世界に籠もった。

 

だけどそんな僕にも変化の風が吹いて。

今自分は変化を起こそうとする側に回っている。

 

話を戻そう。

僕は上司に「話を受けても自分の中の辞める気持ちが無くなることはないと思います」

と正直に伝えた。

 

愚かで、浅はかな若者の言葉。

少し考えればそんなことを言うメリットがないことが分かる。

ただ「やります!やらせてください!!」といった方がいいに決まってる。

 

けど僕はもう分かってしまった。

要領良く、ご機嫌を伺って立ち振る舞う行動、

嘘を付いてゴマをすったり、社交辞令で人と接すること。

そういった当たり前の嘘が、やがてその人自身を苦しめることに。

 

僕は「2、3ヶ月後に不意に辞めることもあるかもしれない」と続けた。

その期間はただの思いつきだったが、今振り返ると

僕は「2、3ヶ月後に何の結果も得られていないようなら辞めます」と言いたかったんだと思っている。

 

「とはいえやるからには、手段を選ばず全力でやり遂げます」と告げたように。

全力を出して2,3ヶ月で何の成果も得られていない訳がない。

そう思っていたんだろう。

 

僕のお陰だけでないことは確かだけど、確かにこの2ヶ月で何かが変わり始めている。

 

 

 

 

 

 

新月の願い事

今は新月です。

新月って満月に比べて存在感薄いっすよね。

無いものをあるようには意識出来ないってことっすかね。

 

さて新月は願い事をするのに最適という話をご存知でしょうか。

月が願いごとを叶えてくれる訳ねーだろwwwワロッシュwwwwと思うのが大半かなぁ。

 

なんで叶わないように思っているのか?

実際に叶った経験がないからですね。

願い事にはタイムラグがあるんですね。

 

例えば今日の新月に願ったことが半年後に叶っていたとして。

その叶ったことを新月のお陰と認識出来るか?

まぁ出来ませんわな。

人は常にまだ来てない明日のことを考えたり、どうでもいい悩みをどうでも良くないように悩むいきもの。

 

だがしかし。

仮に新月の願い事が叶う、という前提だったらどうでしょう。

あら不思議、願いが叶ったのは新月のお陰なのねん♪と臆面も無く口にするスイーツ脳()の出来上がり。

 

さてはてこのカラクリは如何なるものか。

何故「信じるものは救われる」のか分かるでしょうか?

まぁ「信じてる」からですわな。

 

神様は決して人を見捨てない、と信じたとして。

不幸な出来事が起きたとする。

「神なんていない!」と絶望するのは何故でしょう。

信仰を捨てたからですわな。

 

さて信仰を捨てる意味があったのでしょうか?

神様は見捨てないのであれば、不幸な出来事にも意味があるのではないでしょうか。

何の為に信仰を捨てるのか。

自分の為ですわな。

 

自分の為に信仰を捨て、神はいないと定義して生きていくことを選んだだけに過ぎない。

さてはてその選択に意味はあったのか。

それはその人にしか分かりませんが、何の為に信じることにしたのか。

信じることを捨てる意味があるのか。

その可能性を捨てるものに救いなんてある訳もないんですわな。

 

奇跡なんて起きないよ。と信じる意味は果たしてあるのか。

誰でも奇跡は起きた方が嬉しいのに、信じることを辞めたのは何故なんでしょう。

「奇跡なんて起きない」ことで自分が起こした出来事を正当化して自分を守ってるんですわな。

「俺は間違ってない」ことを証明するために信じることを辞めたんですから、苦労がこの先待ってるのは当然ですわ。

「自分がゴミカスだったから奇跡が起きなかったんだ」なーんて認められませんわね。

 

そうやって苦労仲間を増やしていくことで、自分を守るんですかね。

そーしてそういう人が多数派になってしまうと・・・

居酒屋でクダを巻くような、時間の浪費が一般的になってしまうという。

 

おぉ悲劇・・・いや喜劇かな。

そういう人はそういう人なりの喜劇を演じているのだと思えば

私は傍観者として喜劇を見届ける次第です。

 

悲劇を訴えても同情はしませんけど、興味は持ちますよ。

自分と違う世界を生きる人間すべてに花束を。

 

 

 

 

救いは創造するもの

誰であっても自分の論理からは逃れられないらしい。

 

例えばGW一つとっても。

GW最終日は多くの人にとって憂鬱だけど

自分にとっては当てはまらなかったりする。

 

負のイメージを持つ理由がない限り

自分が負のイメージを必要とすることはないだろう。

 

自分を不幸だと思っている人は不幸を創造しているし

自分を幸運だと思っている人は幸運を創造している。

 

それは物事の捉え方というよりは

一種の覚悟と思っていい。

 

覚悟を変えることを人は成長と呼んだりもするけど

それもまた誰かの主観に過ぎなくて

誰かに認めて貰えないことすら

誰かにとっての救いに成り得る。

 

であるならば

救いは自分で生み出すしかない。

 

人の自由意志は常に試されている。

 

虚無感を創造する理由は

www.megamouth.info

「今日はGW最終日です。」

Q.この言葉を聞いて感じたことを答えて下さい。

 

上記の問いの答えは厳密に言うと、無い。

けれども「共通するイメージ」を想像することは出来る。

曰く「GWなのに何もしなかった」「明日から仕事に行きたくない」etc

 

転じて「共有が難しいであろうイメージ」も想像することが出来る。

曰く「やっとGWが終わった」「明日から仕事が出来る」etc

 

答えが無い以上、正解を決めるのは誰になるのか。

巷の声(所謂多数派)を基準にするなら前者かもしれないし

自分の声(ここでは所謂少数派と定義)を基準にするなら後者かもしれない。

 

上に挙げたブログに出てくる「虚無感」についても同じことを言える。

大多数が持つイメージを優先し「虚無感」にフォーカスをするか

自身の持つ少数派のイメージを優先し「虚無感」を打ち消すか。

 

ブログを見て思ったことは「虚無感」を何らかの目的を持って創造している、ということだ。

読み進めた結果、その目的とは筆者にとってのアイデンティティを守るためだと断言しても差支えないだろう。

 

筆者の言葉を引用すると

20年に渡る鍛錬と経験の末、私生活をなげうって、家庭を持つことも諦めて、技術を磨き続けた人間に待っているのはこういう末路である。

こういう末路が待っていなければ私生活を投げ打って、家庭を持つことも諦めたことへの妥当な意味付けを与えることは出来ない。

故に末路を必要としている。

技術を磨き続けた人間に待っているのはこういう末路で無ければならない。

 

こうも続く

例え、心根が優しく、人格的に出来ていて、論理的で、理不尽を嫌う、真っ当な人間、例えば、私でも、病にかかれば、多少はおかしくなるものだ。

多少おかしくなっているのは病にかかっているから、が筆者の論理となっている。

故に鬱病でなければ、筆者の論理は破綻してしまう。

よって鬱病は自身の維持に必要なファクターになる。

 

結びにて

あまり関係の話をするが、「うつ病の人間に3億あげたら全員治るって結局甘えじゃん」みたいな言説が定期に繰り返されるが、それは3億円がうつ病と貧乏の合併症の半分を直し、かつ、働かなくていいという環境がうつ病の根源的原因を取り除いた結果、治るのであって、素人でも機序のわかる話を自分でしておいて何故結論が「うつが結局甘え」になるのか、私には理解できない。

理解してしまえば論理は破綻してしまう。

故に理解できない、と筆者は結論付けるしかなくなる。

理解するためには必要としていた鬱病を捨てなければならない。

 

上記を踏まえたうえで

この連作では、虚無を描いてきたつもりだ。

なので、こうした自分の虚無を語って締めとしたい。本当は、上で語ったことを小説風にしようとしたが、救いを入れたくなってしまったのでやめた。
救いなどねえに決まってんだろ。甘えんな。

これもまた当然の話だ。

結論を言うと「救いがあっては困る」から。

故に虚無を演出していると言っていい。

 

そして問題は上記を「自覚しているのか?」という点になるが

私見として十中八九筆者は自覚していると思っている。

 

故にこの問題は解決しないだろう。

外部から筆者の論理を打ち砕く救いの横槍が入らない限りは。

 

 

ネットの海を見ている

直接顔を合わせることのない人を今日も見ていた。

パソコンが普及し、スマートフォンが普及し、

引き篭もっていても世界中の人を見ることが出来る今の世の中。

 

顔は見えなくても文章を見ている。

虚飾に塗れた文章、心の篭った文章、どちらも見ている。

 

この文章を見ている人がいるだろうか?

その人はどんな顔をしてどんなことを思いながら見ているのだろう?

 

ネットの海を見ることは、

僕にとってその人が生きている証を見ていることに等しい。

 

ネットの海は更新を続けるかぎり広がり続けて

海を見ている人がいるかぎり

その人は今も生き続けている。