明日から始めよう

管理人ユウが思ったこと、感じたこと、考えたこと                                    Twitter:I_am_You4321 https://twitter.com/I_am_You4321

11月4日は牡牛座の満月だった

昨日は満月の寒空の下で恋人と話してた。

書いてることはロマンチックでも、話の内容は大したことないし

頭で思い描く理想とは程遠い物だけど、やっぱり特別な日でした。

 

感情を解放して思ったことを吐き出した自分に

世界は現実、冷静という鏡を見せてくれたのが今日。

 

地元の友達と話すと、ふわふわしている空想の世界から、現実の世界に戻ってくる。

大して面白くも無い、淡々と続く日常。

 

それもいいか、とぼんやり今思っている。

 

妄想に彩られた空想は刺激的で、面白いけど

淡々と続く日常も、退屈なりに、穏やかで落ち着く。

 

空想でも、現実でも、どちらでもいい。

人生が見せてくれるドラマが面白くても、つまらなくても。

僕はドラマを眺めるただの観客に過ぎない。

 

つまらなければチャンネルを変えるし

ぼんやりとドラマを眺める日もある。

 

3連休は今日で終わり。

明日はどんなドラマが放送されるのかな。

そんなことを思いながら日曜の夜は静かに更けていく。

 

今の仕事を始めて明日で2年になる

社会のことを何も知らずに、社会を恐れていた2年前の僕。

社会のことを何も知らずに、社会を舐めていた2年前の僕。

 

「この会社に入れば、社会に出れば、何か変わるだろうか」

そんなことを考えていた。

 

僕は2年で変わった。

変わりたいと願ったから。

 

「28歳までに誰かを本当に好きになることが出来るだろうか」

そんなことを考えていた。

 

僕は誰かを頭がおかしくなるぐらい好きになった。

好きになりたいと願ったから。

 

「地位も名誉もお金もいらない」

そんなことを考えていた。

 

僕は地位も名誉もお金も持っていない。

いらないと願ったから。

 

願いは叶った。

何一つ残らず、完璧に。

 

願いは叶う、確実に。

これから先は、何を願おう?

 

そろそろ、自分のことを願おうか。

僕に必要なのは「幸せを受け入れる」勇気だ。

 

もう恐れなくてもいい。

もう頑張らなくてもいい。

もう無理をしなくてもいい。

 

人はいつも幸せになることを恐れている。

僕もまた例外ではなく、受け取ることを恐れている。

 

もう幸せになってもいい。

偽りの不幸を捨てていこう。

不安も恐怖も、幻にしか過ぎない。

 

自分を傷付けるのは、いつも自分自身。

もう自分を傷付けないようにしよう。

 

僕はこの2年で自分自身を好きになれたのだから。

【時節】本当に好きなことを見つけている人生とは

仕事先でこれを見た時に、僕は「すぐに感想を書かなければ」と思った。

www.megamouth.info

以前これを見た時も、衝撃を覚えたのに、僕は書かなかった。

文章が纏まる気がしなかったから。

今がその時な気がした。

 

反なろう小説と、万能性の核 - megamouthの葬列

 

私は今、本当に好きなことをやっているし、やってきた気がしている。
プログラミングで生計をたてているし、色々な経歴の人と話してきたし、反吐を吐くほど音楽をやった。そして今、こうして文章を書いている。

もし、私が進路調査票を書こうとしている若い自分に会ったら、こう言うだろう。
「本当に好きなことをやれる人生を考えろ」と。

だが、それも無理なことだろうな、という思いもある。18かそこそこの若者に「本当に好きなこと」を問うても、そんなものは「ない」に決まっているからだ。

自分が、それを本当に好きなのかどうか、それは好きなことをやってやってやりきった、探求の末にわかるものだからだ。

>18かそこそこの若者に「本当に好きなこと」を問うても、そんなものは「ない」に決まっているからだ。

 

「それはどうかな」と僕は言いたい。

僕は子供の頃から「本当に好きなこと」しかしてこなかった。

当然と言えば当然だけど、「本当に好きなこと」だけしてる人間に、いや、役に立たない「本当に好きなこと」をしてる人間に世間は冷たかった。

 

苦しさの中で、「本当に好きなこと」をやり続けた僕は、

いや、「本当に好きなこと」を決して辞めなかった僕は、「万能性の核」を手に入れた。

 

曰く、ひきこもりやニートが社会に参画しないのは、彼らの中の「核」として「万能性」というものがあるからだ。

という主張です。この万能性というのは言わば何もしていないことによって守られている可能性の塊です。
簡単に言えば、まだ何もしていない人間は挫折も同時にしませんから、いつかは小説家になれるし、医者になることだってできるし、サッカー選手にだってなることが理論上は可能なわけです。

実際、馬鹿げたと考え方だと私も思いますし、当人も、まさか今から東大理Ⅲに入って医者になれるとは本気で信じていないでしょうが、可能性を留保することで、「医者になれなかった人」には決してならないわけです。

だから彼らはある意味で「万能」ですし、自ら就職したりして、自らその万能性を捨てるような不合理な真似はしないわけです。

 

「やれば出来る」んじゃない「出来るまでやる」それこそが僕にとっての「万能性の核」だ。

 

「はぁ?やれば出来ますけど?」と自分が本気で信じ込めるからこそ「万能性の核」となる。

辛い経験や挫折は今の僕にとって冷たさを含む心地よい逆風でしかないのだが、それも滅多に吹かないことが分かってしまう。

挫折や辛い経験は折り重なった主観でしかない。

 

度重なる主観を通して、人は「万能性の核」を自ら放棄する。

「何にでもなれるはずの自分」を諦める。

だって、その方が楽だもんね。

 

そしてその主観を他人に押し付ける。

「早く大人になれよ」「いつまで夢見てるの?」

 

とても面白い、負の構造。

僕は笑って否定する。

だって、その方が楽しいもんね。

 

幸福と不幸の狭間に揺れている全ての人達は一度、人生の定義をしなおすべきだ、と僕は思う。

「本当にあなたの考えはあっていますか?」

 

今が不幸なら、明日から幸せな人生を歩むべきだ。

過去が不幸なら、明日から幸せな人生を歩むべきだ。

 

ポイントは「自分は幸せだ」と決めることだ。

決定することだ、条件を決めないことだ。

そうすれば何があっても「幸せ」になれる。

 

さぁ「明日から始めよう」

あなたの好きなことを「見つける」のではなく、

「好きだ」と自覚する人生を。

【映画】僕は、過去を蘇らせるのではなく、未来に期待するだけではなく、現在を響かせなければならない

小説が先だったか、映画が先だったのか覚えてないけれど

冷静と情熱のあいだ」がずっと心に引っかかっていたことは覚えている。

 

何故、心に残ったのか。

何故、時間を経て今見たのか。

 

その理由が今良く分かる。

 

僕には恋人がいる。

僕には好きな人がいる。

 

この2つの反する事実は常に僕を試している。

僕は、何をしたいんだろう?

僕は、どうしたらいいんだろう?と。

 

僕は3月に30歳になる。

30歳の誕生日にフィレンツェのドゥオモに行こう。

 

それが初めての海外旅行に相応しい、そんな気がした。

【雑記】自分の心に正直に生きる、という希望への幻想

ネットを見ていると良く、自分の心に正直に生きる。

やりたいことだけやる、といった言葉を目にする。

 

やりたいことが出来ていない人、正直に生きていない人は、

その言葉に憧れたり、自分も真似出来ないかと考える。

 

そんな人に向けて言葉を投げる。

「何かやりたいこと、好きなことはないの?」

 

すると、大抵「特にやりたいことも好きなこともないんです」という言葉が返ってくる。

何故、そんな嘘を付くのだろう?

 

やりたいことは、今口にしている。

「自分の心に正直に生きたい」と。

 

好きなことを聞くと「しいて言えば・・・」といった言葉が返ってくる。

 

やりたいこと、好きなこと無くして人は生きていない。

やりたいこと、好きなこと無くして人は希望しない。

 

結局の所、こういう人は自分に自信がないのだ。

自分の選択に自信が持てない。

 

誰かが価値を見出した物を好きにならないと、こういった人は救われない。

 

僕はクラシック、ジャズ、ピアノが好きだ。

そう言うとお世辞にも「芸術が好きなんですね」といった感心する言葉を貰う。

 

僕はゲーム、エロゲが好きだし、同人誌も好きだ。

双方の価値は自分にとって同質だが、他人にとっては違う。

 

「自分の心に正直に生きている」人は結局自分の選択に自信を持っていて、

「やりたくないことはやらない」人は仕事が嫌いじゃないだけだ。

 

「自分の心に正直に生きる」のは簡単、「やりたくないことはやらない」のは簡単。

そうすればいいだけだ。

その結果起こるリスクを避けるから、しない。

それこそが最善だとその人が判断しているなら。

それは「自分の心に正直に生きている」ということだろう。

【映画】僕が「君の名は」より「打ち上げ花火、下から見るか 横から見るか」を好きな理由

少し前になるけど、「打ち上げ花火、下から見るか 横から見るか」を見た。

 

端的に言うと「打ち上げ花火」は客観的には面白くない映画だと思う。

けれど、僕はこの映画が好きだった。

心に残る映画としてこの先、何かの拍子で思い出すことが度々あるだろう。

 

その理由は何なのだろう?

自分で考えたり、誰かの声を聞いて分かったことがある。

 

その理由を話す前に「君の名は」を見た時に思ったこと。

それは、「大衆向けの映画だな」という感想だった。

 

「君の名は」は面白い映画だ。

笑いがあったり、ポップだったり、切なかったり、深かったりする。

「君の名は」は完成された映画である。

 

だからこそ、僕は余り好きではなかった。

 

何故、完成された「君の名は」より未完成の面白くない「打ち上げ花火」が好きなのか?

 

僕は「余白」があるものが好きだ。

「何故そうしたのか」「何故こうなのか」と考えることが好きで

ここはこうしたんですよ!と言われても「ふーん、そうなんだ」以外の感想はない。

 

だからといって所謂考察が好きな訳でもない。

「ここはこうだろう」と思うだけだ。

そこに作者の真の狙いや、物語全体の整合性は必要ない。

 

僕は、僕の思い描く面白い話が好きなだけで、

誰かが提示した面白い物語は、

僕に100%合わなければ手放しで絶賛することはない。

 

だから僕は「打ち上げ花火、下から見るか 横から見るか」が好きだった。

この映画には地の文が、説明が、一切ない。

 

あの球はなんだったのか。

あの発言の意図はなんだったのか。

あの結末はなんだったのか。

一切ない。

「もしも、こうだったら」があるだけだ。

 

だから楽しい、だから心に残る。

 

「もしも」僕が「打ち上げ花火、下から見るか 横から見るか」を見なかったら、

僕はこの記事を書かなかった。

 

運命を変えるコツは「もしも」を考えることだ。

与えられた物を食べて「美味しい」「不味い」と言うだけなら誰でも出来る。

 

映画を見た後に、面白くないと感じた時

「何故あなたは面白くない映画を見たのか?」と考えたことがあるだろうか。

その理由はあなたにしか分からないのだ。

【FFXI】15年前の未熟な僕に捧げる言葉

15年前の昨日、つまり5月16日。

後の僕の運命を変えるゲームであるFFXIが発売された。

 

発売前から心を掴んで離さなかった。

そのことは疎遠になっていた今の親友との仲を繋ぐ切っ掛けにもなっていた。

 

僕は発売日にFFXIを始めることは出来なかった。

15年前の僕に立ち塞がった「インターネット環境」

今では当然にあるものは当時は一般的とは言いがたく、高いハードルになっていた。

 

親友が先に始めた。

羨んで見つめる僕。

 

今思えば、初めてかもしれない。

あれほど僕が物事に執着していたのは。

 

遅れて僕はFFXIを始めた。

今なら分かるんだけど、

その時僕の「窓」は大きく開かれた。

あるいはそれを「箱」と言い換えてもいい。

 

「家」「学校」といった小さな箱から自分は飛び出していた。

「ネット」の海に漕ぎ出した僕は幸せだった。

 

そこには「差別」が無かった。

「区別」も無かった。

プレイヤーが何者で、何歳で、性別が何であるかは問わない。

昔の僕にはそこは「自由な世界」の象徴だった。

 

未熟な僕は「自由な世界」を謳歌した。

そして気付いたのだ。

 

「自由な世界」が「現実」であることを。

僕は孤独感を覚えた。

 

ここなら自由になれる、そう信じて止まなかった僕の幻想は打ち砕かれたのだ。

それでも僕は執着した。

手放した瞬間に全てがバラバラになって、意味の無い物に、ガラクタになってしまうことを恐れて。

 

僕は大学生になった。

僕は一人暮らしを始めた。

 

まだ僕はFFXIをやっていた。

朝から夜に、そして朝までやっていた。

 

ある時に気付く「ネットゲーム」もまた小さな箱に過ぎなかったのだと。

僕はFFXIに別れを告げた。

 

そして今15年前の昨日を振り返って思うことがある。

 

間違いなく、僕はFFXIに人生を変えられた。

そのことは僕にとって負い目であり、暗い影だった。

そのことは僕にとって自信であり、欠かせないピースだった。

 

15年前の未熟な僕に捧げる言葉がある。

「君は何も間違っていない」